史料によって異なる穴山梅雪の「最期」
史記から読む徳川家康㉙
また、商人の茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)も一行に随行しており、半蔵とともに先導役として家康の逃避行に尽力したという。四郎次郎は用意していた金銀を使って物資の確保や地元民との交渉などの役割を担ったらしい(『茶屋由緒書』)。
「三河の王(家康)は、兵士及び金子の準備十分なりしを以て、或は脅し、或は物を与えて結句通過するを得たり」(『日本耶蘇会年俸』)とあることからも、家康の逃避行がどんなものだったかが多少なりともうかがえる。いずれにせよ、道中で襲撃を受けることは幾度もあり、危険な道のりだったことは間違いなさそうだ(『家忠日記』)。
なお、行動を共にしていたはずの穴山梅雪(あなやまばいせつ)は、家康より遅れて堺を出発したようだ(『イエズス会日本年報』『石川忠総留書』)。理由については定かでないが、どうやら梅雪は家康を疑っており、そのため、距離を置いて行動していたらしい。しかし、装備が不十分だったことから、物取りたちの急襲を受け、殺されてしまったという(『三河物語』)。また、家康によって殺されたとする俗説もある(『老人雑話』)。
梅雪の最期についての記述は史料によって若干の食い違いが見られる上、梅雪横死(おうし)に家康が関与したことを匂わせる当時の家臣の回想録も見つかっており、今後の研究が待たれるところだ(『木俣土佐守守勝武功紀年自記』)。
さて、家康は4日に、織田信長から留守を預かった安土城(滋賀県近江八幡市)から逃れた蒲生賢秀(がもうかたひで)に宛てて「信長年来の厚恩を忘れず、必ずや明智光秀を成敗すべき」と書状を送り、光秀討伐に意欲を見せている(「山中文書」)。なお、梅雪が死んだことを家康が聞かされたのもこの日のことだった(『家忠日記』)。
言葉通り、家康は翌5日に家臣に出陣の準備を命令。12日に出陣する予定だったらしい(『家忠日記』)。同日には家康が安土城に着陣したとの噂が流れたという(『多聞院日記』)。
ところが13日、光秀は備中国(現在の岡山県西半部)から驚異的な早さで京に戻った羽柴秀吉(はしばひでよし)と山崎(現在の京都府大山崎町)にて合戦におよび、敗北(『日々記』『言経卿記』)。戦場を逃れた光秀は、敗走中に討ち取られた(『当代記』『蓮成院記録』)。その首は本能寺にさらされたという(『言経卿記』『津田宗及茶湯日記』『日々記』)。
軍勢を整えるのに時間がかかったのか、梅雪亡き後の旧武田領の動きを警戒していたのか、家康が実際に光秀討伐のため出陣したのは、翌14日のことだった(「吉村文書」)。この時の家康はまだ、光秀が討ち取られたことを知らなかったらしい。
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